風が吹けば…の連鎖(貧困の光景)その2

貧困の現状は、野生に近づく。

家は雨風を凌げず、満足に栄養が行き届かず、病気の治療も受けられない。

病気になったり、弱った子どもたちは食事を撮れなくなり、淘汰されていく。

 

最初のエッセイ「餌をくれない飼主」がフィクションでなければ、餌をくれない飼主と犬の間には、どんな関係が存在しているのだろう。日本でいう「家族のようなペット」とは全く違うことは分かるが、ある日気まぐれにいなくなってしまう存在なのだろうか。

大昔の狩猟採集生活でさえ、獲物の分け前があった。「人付け」なんて言葉に当てはめたくない、純粋な共同生活が営まれている浪漫を感じた。

 

人間が動物と違うのは、貨幣が存在していることだ。

それまで周囲に存在していなかった食料や金銭や医療品など様々なものを与えることで、その人の価値観に影響を及ぼし、喜びや怒りといった感情につながる。

 右のものを左に横流しする、中間搾取する、沢山産んでリスクに備える、沢山の子が幸運にして生き残り、家族の食料が足りなくなれば援助物資だろうが何だろうが売り払う。まさに、他人の屍を乗り越えていくような、延々と続くサバイバルの状況にあっては、プレゼントでも送るかのような支援にいかにリアリティがないことか。

でも、それが身に沁みる体験をした日本人は少ない。行動する前に立ちすくんでしまわないようにするには、どうしたら良いか。

マタイによる福音書「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」

(貧しい人にとって)下着は替えがあるけれども、高価な上着は一張羅で替えがない。灼熱の日中から一転して、夜には30℃以上も冷え込む砂漠で上着を与えることは、自らの死をも意味する。つまり、与えるということは、本来、思いつきや要らないものを片手間でやるような楽なものではなく、自分の命を与えるような真剣な行為。

そんなヒントが書かれていた。

 

「いただきます」を毎回、(命を)頂きますの意で言えている人は少なく、「こんにちは」や「お世話になります」くらい、考えていない言葉ではないだろうか。

考えないという意味では、物を送ることに対し、思考が止まり、自分の行為に酔い、本質からかけはなれた自己満足にとどまっている。もしくは、既に片付いたこととして、考えようともしたくないのが現実である。